ヨーロッパ放浪の旅(1965年〜1968年)

@「日本脱出編」

東京オリンピック(昭和39年)の前年、日本政府は海外観光渡航を自由化した。
それまでは、一般庶民は海外旅行に出ることができなかった。当時、日本の
国は貧しくて、外貨持ち出しも、1人500ドル($1=360円で18万円)に制限され
ていました。

千載一遇のチャンスとばかり、OL1年目の私は、働いて蓄えた虎の子10万円を
元に、海外へ飛び出すことにした。20歳になる少し前であった。目指すはイギリス。
当時シベリア鉄道を経由して、ヨーロッパへ行くのが、最も安上がりのルート
でした。手持ち資金から8万円はたいて、ヘルシンキまでの片道切符を買った。

昭和40年9月末、ついに、横浜港からナホトカ行きの船に乗った。ソビエト船籍
の船はバイカル号。生まれて初めて見る大陸、シベリア鉄道、プロペラ式飛行機、
モスクワの赤い広場。見るもの、聞くもの、みな珍しく、まさに夢のような1週間
でした。

しかし、楽しい旅はそこまで。私のヨーロッパ放浪の旅は、このあと始まったのだ。
私の切符はヘルシンキまでの片道切符。そこから先は、何のあてもない。
ポケットには、現金2万円あまり。親には、「ヨーロッパに友達がいるから大丈夫」
と嘘ついて出てきた。「英語をfluentに話せるようになって帰ってくる」と大見得を
はって出てきた。「何とかなるだろう。」 しかし、列車が、いよいよヘルシンキに
近づいてくると、胸の動悸が高鳴る。 「どうしよう・・・?」 私は、絶体絶命の
ピンチに追い込まれた。

たまたま日本帰りのデンマーク人男性とイギリス男性が列車に乗っていました。
私はヘタな英語で、一生懸命訴えました。私のチケットはヘルシンキまでの分
しかないこと。お金も残り少ないこと。どこかで働きたいと思っていることなど、
もう必死でした。彼らは、たぶん私に「You are crazy !」と言ったように思います。
今振り返ってみても、私は本当にクレージーで、無鉄砲な女の子だったと思う。

A「デンマーク編」

デンマーク人の彼は「イブ」と言った。彼は見るに見かねて、私をコペンハーゲン
の自分の家族の家に連れ帰ってくれた。そして、翌日、コペンハーゲンのある
新聞に、日本の若い娘が職と住まいを探していると広告を出してくれた。

何と驚くなかれ、翌々日、朝から電話がなりひびいた。合計26本の電話申し
込みがあった。イブとも相談して、私はコペンハーゲン郊外の医者の家で働く
ことに決めた。私は診療所の2階を自分の住まいにしてもらった。5人家族の
家で、家の手伝いと、2歳の男の子の世話をすることが、私の主な仕事だった。
仕事は朝の7時半から5時まで、夕方から夜は全く自由だった。

デンマークという国は信じられない位豊かな国だった。緯度は日本より高い
ので、当然、冬は雪が降って寒い。だが、一歩家の中に入ると、どの家も半袖で
過ごせるくらい暖かいのだ。すべての家にセントラルヒーティングが施され、
北陸の冬の厳しさを知る私には、この国の冬は天国だった。毎日、金髪と青い
目に囲まれて、生活していると、たまに鏡を見て、自分の顔だけが、イエロー
なのに、ショックを受けることがあった。

ここで、私はFolk School ( コミュニティ・スクール)のような夜間の学校に通い
始めた。デンマーク語を習いに行ったのだ。デンマークはアンデルセンの物語
にあるように、人魚姫のような美しい金髪の美男美女が住んでいる。ところが、
デンマーク語には、喉をこするような、かすれた、きたない音がある。特に「R」
の音などその典型だ。デンマークの人たちには悪いが、デンマーク語は興ざめ
な音を含む言語だと思う。

B「イギリス編」

それから8ヶ月、私は丸々とチーズ太りして、懐も少しリッチになった。やっと
イギリス行きの列車の切符を買うことができた。1966年5月1日、コペンハーゲン
発の列車は、私を乗せて、ドイツ、ベルギーと、コンチネンタル大陸を横切って、
ついに、憧れのロンドンに到着しました。

私はルンルン気分で、入国管理事務所に向かいました。
「How long are you going to stay in Britain?」(滞在予定はどの位?)
「As long as possible」(できるだけ長ーく。) と、私。
「How much money do you have?」 (所持金はいくら?)
そこで、私は手持ちのお金を全部見せました。
「Well、you can stay here for a month」 (じゃ、1ヶ月ね。)
私のパスポートには、滞在許可1ヶ月とスタンプが押されてしまいました。
「どうしよう?」私は、英語がペラペラになりたくて、はるばる日本からやって
きたのです。「わずか、1ヶ月で、どーやって、うまくなれるの?」
今、考えるとイギリスの入国管理事務所の処置はごく当然なのですが、私は
途方にくれました。5月1日、ロンドンのHyde Park公園は太陽がいっぱい。
私はそこで初めて泣きました。

でも、ひとしきり泣くと気が晴れました。「1ヶ月でもいい。英語学校に通おう。」
ロンドンには、私立の語学学校がいっぱいありました。おもに、フランス、ベル
ギー、ドイツやアラブの金持ちの子弟相手の学校でした。それとも知らず私は、
そのうちの1つ、Kensington High Street にある私立の語学学校を訪ねました。

感じのよい30歳くらいの女性秘書が応対してくれました。そして、気の毒そうに
私に、こう言いました。
「I' m afraid you can't afford to take the class of this school. The fee is
terribly expensive.」 要するに、ここはリッチな家庭の子弟を相手にしている
語学学校だから、授業料がとても高いというのです。

私は再び落ち込んでユースホステルに戻っていきました。
ところが、数日後、私のユースホステル宛てに1通の手紙が届いたのです。
あの女性秘書からでした。
「Dear little Japanese girl. I have a mother who is an alcoholic.
If you don't mind taking care of her and do a little house work, I can offer
you a bed room and some food.」
(もし、自分のアル中の母親の面倒 をみてくれたら、私に、ベッドと食事を提供し
てあげよう。)と、いうものでした。私は天にも昇る気持ちがしました。

世の中まさに、「捨てる神もいれば、拾う神もいる」のです。学校探ししていた
時に出会った、女性秘書が、私に救いの手を差し伸べてくれたのでした。
彼女が保証人になってくれたおかげで、私は、ロンドンにしばらく、とどまること
ができました。West London College という安い公立の学校も紹介してもらい
ました。午前中は、彼女の母親、アル中のおばあさんの世話と家の仕事、午後
1時から英語学校へ行くという毎日が与えられました。

こうして私のイギリスでのホーム・スティが始まりました。
アル中のおばあさんは飲まない時は、とてもいい人でした。教養があって、
訛りのない美しい英語を話す人でした。でも、いったんアルコールが入ると、
とてもNastyになっていってしまうのです。私は毎日、町かどの酒屋さんから、
彼女のお気に入りのa bottle of sherry(白ワイン酒を1本)を買うのが日課でした。

West London College での勉強はとても楽しかった。世界中から若者が英語を
学びに来ていました。なにしろ英語学校というところは、Native の先生以外に、
まともに英語をしゃべる人はいない。私はいつの間にか、物怖じせずに、英語
を話すようになっていきました。

Italian、 Spanish、 などの変な「巻き舌英語」に比べれば、私のJapanese 英語
の方がずっとましだと思ったからです。当時イギリスには、海外から英語を
学びに来る人たちのために、Royal Society of Art という英検テストが
あった。私はIntermediate(中級)に合格し、Certificate(証明書)をもらいました。
すべてが順調でした。

あのまま地道に英語を勉強していたら、私の人生はもっと違ったものになって
いたかもしれない。英語を学びたい一心で、日本を飛び出してきた私でしたが、
次第に私は、教室で学ぶ英語より、生きた人間相手の英語の方が楽しくなり
始めた。なぜなら、イギリスでは、魚屋のあんちゃんまで、ベッカムみたいな
いい男だったりした。そうです。私は気が散っていってしまったのです。

「私の貴重な青春を、アル中のおばあさんの家と、学校との往復ばかりに
費やしてはいられない・・・。」私は恩知らずにも、そう思い始めていきました。
今でも、本当に申し訳けない気持ちになるのですが、私は おばあさんの世話
がだんだん重荷になっていきました。ついに、私はその家に別れを告げて、
フラットを借りました。Japanese Restaurant でアルバイト口を見つけたのも
その頃です。

当時はワーキング・ホリディという制度もありませんでしたので、私は観光
ビザのまま、隠れるようにして働いていました。私は、もしかして、ロンドンで
働いた日本人不法就労のはしりではなかったかと思います。

1968年6月18日、私はついに帰国しました。すでに、日本を出てから、3年近い
月日が流れておりました。


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